Ume-Mats Diary: 2009年5月
久しぶりに、うめぞうです。
朝日新聞の土曜版にBeという別冊がある。そこに「悩みのるつぼ」と題する人生相談のコーナーがあり、本日5月9日の回答者は社会学者の上野千鶴子だ。相談者は研究職に就いているという女性。最近ガンが再発した上司のパワハラに苦しめられているという。この上司のパワハラは「人格否定から業績の否定」、さらには外見の批判にまで及び、「優秀じゃない」、「任せられない」、「その化粧は何だ」、「その格好は学生みたいだ」などと非難を受け、昨夏は食事がのどを通らず激やせをしたという。
さて、皆さんならこれに対してどのようなアドヴァイスをされるだろうか。
うめぞうはこれに対する上野の回答を見て、それこそ目がテンになった。
「この職場にいすわるしかないと思えば、困った環境の一部と考えて、省エネ・省コストでスルーするしかありません。馬耳東風、柳に風ってやつですね。あなたのまじめさではそれもむずかしいでしょう」、「注意した方がよいのは、絶対にひとりで抜け駆けしないこと」、「パワハラで労災認定も受けられます。が、そのためには被害を証明しなければなりません。たとえ保障が得られても、心身を病むようなら、本末転倒ですね。」
ツタの毒に関連するマンゴーは女性の敵は女性というが、それが女性の権利擁護を標榜してきた社会学者の代表的存在となれば、洒落にもならない。本末転倒とはこの上野の回答の方だ。上野のこの回答には、社会学者としての資質はもとより、成熟した市民としての人権意識も、一人の人間としての倫理的感受性もまったく感じられない。「この職場にいすわるしかない」という表現、「あなたのまじめさではそれもむずかしいでしょう」というシニカルな物言い、「抜け駆け」という言葉遣い。うめぞうには、非常に違和感がある。この上野の鈍感な言語感覚には、まともな常識人なら品の悪さを感じないではいられないだろう。
長いものには巻かれなさい。一人で抵抗してもどうせつぶされるのだから、環境の一部と思ってすりぬけなさい。これこそ、パワハラ、セクハラを行う側にすり寄り、これをひそかに応援するものの言い方だ。簡単に言えば、社会的、人為的に作られたものを、自然的所与として受け入れろといっているのだ。そして、それに抵抗することを、青くさい「まじめさ」としてたしなめ、もっと「大人になれ」と勧めている。そして条件が変わらなければ「長期のキャリアプランを考えて、転職の可能性を探った方がよい」とまで言う。不条理な上司を辞めさせるのではなく、自分が去っていくことを、より利口な生き方だというのが、上野の回答から浮かび上がってくる処世訓だろう。
庭の装飾を作る方法これが社会学者のアドヴァイスだというならば、われわれは社会学というものをまったく必要としていない。むしろ有害だ。上野と同じ業界にいる社会学者たちには、きちんとした理論上の批判を展開してもらいたいものだ。しかし、よく考えてみると、こういうものの見方の中に、上野という社会学者の欺瞞的な本質がはしなくも暴露されている。これが日本で一番良い大学と思われている東京大学の社会学教授であり、これが日本で批判的社会学者の騎手だとすれば、日本の古い男性社会も、旧弊な組織防衛者たちも心強い限りだろう。
この相談者の描写が、事実とどれくらい一致しているかは、別の次元の問題だ。回答者はあくまで、この相談が事実であることを前提に回答する。そしてこの相談者の描写が事実であれば、犯罪行為となる可能性がある。この相談者の場合には、今のところ露骨なセクハラはないようだが(化粧についての言及にはその萌芽はある)、セクハラがあればストーカー防止法、刑法の強制わいせつ、強姦等に関する規定に触れる場合がある。ちなみに回答者上野は「こういうカンちがいオヤジに『キミだけが救いだ』なんてストーカーされなくてよかったですね」と相談者に向かって書いている。なんという鈍感さか。
またこの相談者のようなパワー・ハラスメントの行為に辞職を強いる要素があれば、労働基準法の解雇、労働時間等に関する規定や、労働組合法の不当労働行為に関する規定に触れる場合があるし、また民法の不法行為に関する規定に抵触する可能性がある。犯罪性の立証が難しいということは、それが犯罪行為である可能性を、いささかも軽減することはない。
犯罪的行為から身を守るために、市民は社内ルールや法に則ってあらゆる手段を行使する権利を有する。会社や大学をはじめ、既存の組織は当然のことながら、こうした手段をとられることに対して、さまざまな自己保身を行なう。日本で訴訟が起きにくいのは、訴訟をあきらめさせるためのさまざまな前法律的な圧力が行使されるからだ。また法体系自体も、また犯罪の立証責任の規定も、個人犯罪に比べて組織犯罪に対して甘くできている。しかし、そうであればなおのこと、この日本でいやしくも社会科学でメシを食っている人間は、その先頭に立って、少しでも個人の権利主張をうながし、それを側面援助し、理論面で現実の変革に手を貸すことが求められているのではないか。
しかし現在、会社の経営陣や大学の教授会は、少なくとも、悩みのるつぼ回答者上野千鶴子などよりは、人権問題に敏感だ。もしこうした訴えを、組織的な圧力でつぶそうとすると、それ自体が次なる犯罪行為を構成しうる可能性が出てくる。なにより組織は、この種の問題がマスコミに流れるのを恐れる。企業でもコンプライアンスが叫ばれているのはそのためだ。企業が倫理的になるのは、それが業績を左右する要因にもなるからだ。1996年にアメリカの三菱自動車がセクハラの集団訴訟を受け、結局50億円近い巨額の和解金を支払うことになった。それだけではすまない。それが大きく社会問題化することによる企業損失は計り知れない。今や人権を守り、ハラスメントを根絶することは、企業にとっても大学にとっても、死活問 題なのだ。そんな中にあって、左翼的言辞をもてあそんで社会批判を商売のネタにしてきた上野のこのアドヴァイスは、まじめにこうした問題に取り組んできたカウンセラーや、組合員や、各組織の相談窓口の人々の努力への裏切りである。
さて、うめぞうなら、どんなアドヴァイスをすることになるだろう。おそらく次のような趣旨になるだろう。
「今日から、テープレコーダーでも、日記でも、あらゆる手段を使って、パワハラの証拠集めをしなさい。そして、その証拠(ないしはその証拠の存在)をまずは相手に知らしめることからはじめてはどうでしょうか。ほとんどはそこで何らかの改善があると思いますが、改善がなければ、組合なり、会社の相談窓口に持ち込み、なおかつそこで協力を得られない場合には、弁護士に相談し、訴訟も辞さないという姿勢をお取りなさい。ここはひとつ、凛としたプライドをもって、闘ってみてはどうでしょうか。ただし、そのためには、自分の方も、就業規則を遵守し、かつ、あらゆる交渉で、冷静に、誠意を持って紳士的に対処することが必要です。言い方は柔らかに、言う内容は妥協せずに、という戦法です。かなりめんどくさいか� ��しれませんが、かならず支援者が出現します。われわれの権利はわれわれが主張することによって実現しなければなりません。でも、その戦いの成果は自分一人のものではなく、同じ事情に苦しんでいる多くの人々の希望の芽となります。ひょっとすると今回も同じようにストレスで激やせするかもしれませんが、社会的公正のために戦ってやせるのと、不当な圧力に屈してやせるのと、どちらがいいでしょうか。」
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