ソウルからの場当たり的ノ-ト:So-netブログ
本のイメ-ジの貼り付け方がわかったので(今さら)、くっつけて見た。Visualの力で、くだらない感想文が何やらそれ� ��しく見える(自分にだけ)から不思議だ。
「歩兵の本領」、浅田次郎
「彗星物語」、宮本輝
「せんせい」、重松清
「雨あがる」、山本周五郎
「ミカドの淑女」、林真理子
「村田エフェンディ滞土録」、梨木香歩
自衛隊という組織の、政治的位置づけとかの話はなしに、その底辺近くでの隊員たちの日々の生活が、著者自らの体験をもとに綴られている。日本が高度経済成長期という時代に差し掛かったころだから、ずいぶん前の話である。星の数(階級)より飯の数(経験)といわれる世界だ。きつい訓練の中、肉体的制裁は日常茶飯事。しかし、そんな中にもホロっとさせられるエピソードがちりばめられ、浅田次郎の筆の力に引き込まれていく。一部見識の高い人はそう思わないだろうけど、お馬鹿な私には文句なく楽しめる一冊だった。
私の友人で自衛隊に入った人が一人いる(もっといるかも知れないが)。中学の友人Wだ。中学卒業以来一度も会ったことのなかったWと、恐ろしい偶然で、20数年前、北海道の列車の中で出会った。そのころ私は、サラブレッドの故郷、北海道日高地方で勤務していた(厩舎にいたわけではない)。出張で帯広に行く列車の中でWに出会ったのだ。「おお、Wとちゃうんか?こんな所で何しとん?」、「え、雀翁か?おまえこそ、何してんねん?」「おれは、今、N社に入って日高にある工場におるんやけど、出張で帯広に行くんや」、「そうか、おれは自衛隊に入ってて、今から基地に戻るとこや」、「え、Wが自衛隊?似合わへんなあ」。Wとは中学2年生で同じクラスになり、とても仲が良かった。毎日のようにしょうもないギャグを飛ばしあ い、ふざけあっていた。どちらかといえば、軟派でたよりない感じのWから、「自衛隊」は想像しにくかった。「この前、ミグが飛んできて大変やったんとちゃうんか?(ソ連の戦闘機ミグに乗ったパイロットが北海道に亡命してきた事件) スクランブルとかあったんか?」、「おれは、航空自衛隊とちゃうからスクランブルはなかったけどな、まあ、緊張した」...そんな会話を交わして別れた。Wはどうしているんだろう。
まだベルリンの壁が壊れる前、東欧のハンガリーから留学生を迎えた城田家の人々、留学生のボラージュ、そして城田家の犬「フック」の物語。ものすごいアップダウンのある展開ではないのに、私はこの物語に酔った。読んでいてとても楽しい。「ちょっと、宮本さん、、それはないでしょ」、という無理な(現実味の薄い)展開もあるが、「小説」の楽しさが満載のお話である。城田氏は貿易会社を経営し、ハンガリーでの商売の行きがかりから、男気を発揮して、自費で日本への留学生を一人引き受ける。でも、その留学生が来日したときは、事業は倒産し決して楽な生活ではなかった...
違う文化で育った人の価値観の違い、そんな違いを超えた人間の普遍的なやさしさ、緩衝剤のような働きをする愛犬フック。読んでいて、人間て本当にしょうがないなと苦笑する。エンディングに悲しいエピソードもあるが、読後感は抜群によかった。この本を読んで、「今月は小説だけ」と決める。
久しぶりに重松清を読む。タイトルからして中身がわかるような感じである。子供にとって先生は大きな存在である。クラスの中で、部活で、学校で、先生の影響は計り知れない。「いい」先生に当たることもあれば、「いまいち」の先生にあたることもある。生徒を育てる先生としての役目と、勝つために生徒を選ばなければならない部活の監督としての立場を一人の先生が両立しなければならないことがある。つっけんどんで冷たくさえ感じる保健室の先生が、教室に行けなくなった生徒をつっけんどんに迎え入れ、魔法の「ドロップ」で子供の心を解きほぐす
いくつかのエピソードを読みながら、私は、小学校高学年のころ、九州の炭鉱が閉鎖になり転校してきた数人の同級生のことを思い出した。彼らがなぜ転校してきたかの詳しい説明はなかったが、わけありは雰囲気から明白だった。授業で教科書を読むとき、聞き慣れない九州のイントネーションに、教室が大爆笑した。今ならそれがどんなにその人たちを傷つけることになるかよくわかる。でも、そのころはそこまで想いがいかなかった。ただでさえ、新しい土地に来て不安であり、家族の経済状態も楽でなく家の中も暗かったであろうことは想像がつく。なのに、教科書を読んだだけで、いわれもなく笑われる。くやしかっただろう。先生が地元の私たちに何と言ったかは覚えていない。ただ、あの人たちに会うことがあれば、謝らな� ��ればいけないと思う。
短編集だが、タイトルの「雨あがる」は寺尾聰主演で映画化されたのをDVDで見たことがある。面白い映画だったが、いまいち何が言いたいのかよくわからなかった。今回、この原作を読んで、それがすっきりした。こんな話だったのかと膝を打ちたくなった。山本周五郎のストーリーは心に温かく染みる。欲を持たず、謙虚で、人を先にして自分を後にする人。そんな人が住みやすい世の中であればどんなにいいだろう。そんな人が住みにくい世の中は、どんなにぎすぎす・どろどろしていることだろう。
林真理子の本はほとんど読んだことがないが、私が見ていたNHKドラマの原作を書いていることを知り、何か一冊読んでみようと、Amazonで適当に選んだ。皇室と学習院の世界で活躍した下田歌子(この本を読むまで知らなかった)の半生の物語。一般に世襲制というものに大変懐疑的な私であるから、皇室の話にはあまり興味がわかない。今の天皇は非常に立派な人だと思うし、個人的に大変尊敬しているが、それは個人への尊敬であって、その血統やシステムに対するものではない。また、この話で重要な役割をする乃木将軍も好きではない。旅順攻略で無策によってあれだけの人を死なせた責任が、ただ明治帝の寵愛により問われないというのは理解しがたい。いや一人乃木将軍が好きでないのではなく、徳川を倒したあと、藩閥政治を� ��横した薩長の政治家・官僚・軍人たちが、組織として好きではないのである。政権を取るまではいいことを言っておきながら、いざそれが手中に入ると、言っていたこととちがうことをする...今の与党のようである(ちなみに私はドジョウさんを支持するがM主党は支持しない)。歴史は繰り返されるのだろうか。なお、この見解は、「ミカドの淑女」とは全く関連がない。
「滞土録」とは、「トルコ滞在記録」のことである。またエフェンディとは、学問を持った人に対する尊称だ。紀伊半島沖で座礁・難破したトルコ船(エルトゥ-ルル号)の乗員を地元の日本人が救助したことを恩にきて、トルコ政府が一人の遺跡発掘学者(村田)を国費でトルコに迎えた。トルコの帝政は末期症状(第一時対戦直前)で、いつ革命が起こってもおかしくない状態だったが、遺跡の宝庫であるトルコでの滞在は、それに関する学者にとっては、特別のものだったはずだ。村田はその下宿先で、イギリス人、ドイツ人、ギリシャ人、トルコ人、そしてオウムと暮らすことになる。遺跡関連の叙述は若干冗長であくびもでるが、異文化の中で暮らす日本人たちの姿は興味深い。村田が日本に帰ってすぐ、トルコで知り合った人� ��ちが戦争の中で死んでいったことを手紙で知らされる。本編中、登場人物の口から、今の日本人が忘れかけている、国への思いや自国の文化や歴史への思い入れが語られる。話は、まったくのフィクションであるが、100年ほど前の世界の様子が知れておもしろい。
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